展示室 2

売薬の誕生

 江戸の町で売られていたくすりは、胃腸薬・膏薬をはじめ、その数は実に1500種におよんだという。この数の多さは、当時の人びとがいかに売薬を必要とし、売薬が繁盛していたかを物語るものといえよう。
 これほど多くのくすりは、なぜ生まれたのだろうか。その背景にある、当時の人びとのくすりに寄せる願いや、江戸の社会におけるくすりやの実態は一体どんなものであったのだろうか。人びとはどのような意識のもとに、くすりを取り扱っていたのだろうか。


くすりがつくった町
 1590年8月、はじめて江戸に足を踏み入れた徳川家康は、ただちに城下の橋普請に取りかかった。
 新たにかける橋は273橋を数え、江戸城普請も相まって、近郷から集められた人足の数はたいへんな数字にのぼった。その人夫の間に流行した眼病によく効いて評判を高めたのが目薬「五霊膏(ごれいこう)」だった、という。
 「五霊膏」は1593年、家康が城下町割を最初に行った日本橋・本町4丁目に移り住んだ小田原の薬種商益田友嘉が、寒水石・竜脳・黄連などを白蜜で練って貝殻の容器に入れ、店棚に並べて売ったのがはじまりである。1614年には堺の松本市左衛門が屋号を 「いわしや」 として、家伝薬「調痢丸(ちょうりがん)」 の販売をはじめるなど、本町は堺・京都の薬種商が集団で居住するくすりの町としてにぎわいはじめたのである。


江戸・本町の発展
 本町における和薬種改会所は1722年、伊勢町表河岸に設けられ、和薬真偽の吟味をはじめた。
 各地方から江戸に集まる和漢薬種は必ず改会所で検査を受けること、本町の薬種問屋に限り地方出の和漢薬の直荷請ができることなどの特権を、大坂道修町・京都二条の薬種商にさきがけ、本町の二十五人の薬種商にあたえた。
 幕府は和漢薬の検査の必要なことを痛感していたものの、多量で多岐にわたる薬種を管理する手段を得ず、本町薬種問屋組合の薬種商二十五人に附与したのである。1687年に刊行された『江戸鹿子』によると、江戸には36軒の薬種問屋・製薬屋があったという。医者の数は72と記載されている。
 十八世紀はじめには江戸の人口は100万人に達した。1721年の調査では町屋の人口は50万人であり、104軒のくすりやがあったと 『江戸惣鹿子』(1751年刊) に記載されている。
 化政文化に代表される19世紀初頭、江戸を訪れる人びとの買い物ガイドだった 『江戸買物独案内』 には、生薬屋が206軒、薬種屋が51軒、掲載されている。
 同じく観光案内として全国に知られていた『江戸名所図会』には、さまざまな看板が立ち並ぶ本町の薬種店や、著名売薬の「錦袋円(きんたいえん)」 の店先などが表情豊かに描かれている。


医学の根底にある信仰
 江戸期に入ると、世間の出来事や事件をこまめに記録した、いわゆる「随筆もの」がさかんとなってきた。当時のインテリを代表する武士や僧侶ばかりでなく、町人も筆をとっている。
 これらほとんどの随筆に共通していえるのは、医療に関する記述が多かれ少なかれ必ず載っていることである。作者が日常体験した疾病やその治療法・治療薬などについて、素朴な視点から事実をありのままに描写している。1795年の 『譚海』は、著者の津村淙庵が全国を行脚した見聞記だが、医薬に関する記述が数多く見られる。


・しやくり出るには 柿のへた黒焼よし
・腹くだるとき煎薬 蒼朮(そうじゅつ)・升麻(しょうま)・防風(ぼうふう)・乾姜(かんきょう)・茯苓(ぶくりょう)右六味目方各等分、桂皮にても肉桂にても、随分からきものを、右六味等分のめかたほど加え、甘草少し加べし

といった純粋に医薬を用いるものから、

・蟲歯のまじなひ 紙も三十二に折て、蟲といふ字を書て、釘にてひとつひとつうちて柱のわれめにはさむべし

など、呪い・祈祷に類するものまで、内容は広い範囲にわたり、当時の人びとの医療に対する関心の高さを反映したものになっている。

社会が生んだくすり
 江戸時代、人びとの病気に対する認識は、大きく4つに分けられると考えられている。
1. 疫病
2. 疝気・癪
3. 食傷、胃腸障害
4. 腫病(脚気、腎臓病など)

1.疫病
 ひとくちに疫病といっても伝染病以外にもその意味するものはいろいろである。疫病の流行りは、社会の中で何かの調和が破れるとか、鬼神が起こるなどの結果と考えられていた。
 疫病が突如として蔓延し、人びとがバタバタと倒れていく惨状を見て、これを「神の崇り」と見ることはむりからぬことであったに違いない。疫病退散のための祈祷が行われ、呪符に人びとはすがったのである。
 しかし、こうした信仰に密着した医療が存在していた一方で、「病気の治療にはくすりが必要」という意識が、かなりの人たちの脳裏にあったようである。

2.疝気・癪
 江戸の売薬の広告には、疝気・癪の効能をうたうものが非常に多かった。当時、疼痛をともなう胸部、腹部、下腹部の内臓疾患を広く疝気あるいは癪と呼び多くの人が患っていた。かれらの多くが売薬に治療を求めていたことはいうまでもない。

3.食傷、胃腸障害
 社会が安定してくると、流通機構の確立に合わせ、鮮魚や野菜など全国の物産品が江戸の町に流入してきた。食生活の変化が新しい疾患を生み、そのためのくすりが登場したのである。
 江戸の名薬といわれ、一六六四年に上野池の端で売り出された 「錦袋円」にも、気付け、気の疲れのほかに、ものあたり・はきけ・くだりなどが効能として記載されている。
 主成分の阿仙薬はタンニン酸を多く含む収斂剤であり、慢性下痢などを治するのに使われている。阿仙薬に五倍子が代替されることもあった。伊勢みやげとして知られる「万金丹」も食傷に効果がある阿仙薬が主体となっている。

医者のくすり
 民間医療であった売薬の普及に合わせ、当時の医療体制が一体どんなものであったのだろうか。一般に、町医になるのに明確な資格があったわけでなく、極端にいえば、だれもが医業の看板を出すことができた。とはいえ医者たるもの、人の命を左右する大事な職業であることには違いなかった。
 医者については誰もが関心をもっていたのであり、社会的な監視の目はかなり強かったようだ。「薮医者は一人活かすと一人死に」、「病人のほうで薮医の匙を投げ」など、川柳にうたわれた俄医者の例は数多い。
 幕府の官職に医者を加える医官制が確立したのは、江戸中期をすぎたころである。
 幕府の医官はその従事の順に、「典薬頭」、「奥医師」、「番医師」、「寄合医師」、「小普請医師」、「目見医師」などの位階に分かれていた。
 江戸時代、いかに身分が高くとも3階建ての家を建てることはできなかったが、将軍をはじめとする奥向の治療を担当した御匙医は、3階の家をもつことを許された。くすりを製するために清浄な所を必要としたからである。治療のほか、くすりの調合も医者の大事な仕事であった。
 「竜脳丸」 (半井家)、「枇杷葉湯」(関本伯典家)、「神仙丸」 (久志本)など、医者の処方として重宝され、人びとに分けあえられていたものが、やがて売薬として広く販売されるようになったものも数多い。


家庭医学の萌芽
 1693年に、水戸光圀の命を受けた藩医の穂積甫庵によって刊行された『救民妙薬』は、「病気の治療にはくすりが必要」という人びとの要望に応え、より適切な治療を目的に、くすりの使い方を項目別に簡単にまとめたものである。
 1中風、2疫病、3食傷、…23痔、24頭痛、…75頭痛、76眩皐。…115旅立つ者、116他国へゆく者、129くいあわせ。
 いずれも素人が家族や自分の病気・ケガなど、急場のときに使うのに便利なようまとめられている。
 治療に用いる薬物は、主として民間薬が用いられ、そのほとんどは山野で採集できるもの、身近にあるものばかりを選んである。医薬の知識がなくても、これを読めばなんとか治療の手立てが立つだろうというわけである。
 江戸時代、わが国の医学は独自の発展を遂げたが、医学発展の恩恵を受けたのは、一部の階級に限られていた。多くの人びとにとっては、医者にかかることさえままならぬ時代だったことはいうまでもない。


隠密もいた、くすり行商
 1852年の 『近世商売盡狂歌合』には、行商により全国にくすりを売って歩いた者たちがかなり出てくる。

虎屋解毒丸 朝鮮の弘慶子売り
がらんとう売り ういろう売り
居合抜の売薬 がまの妙薬
熊の伝三膏売り 徳平膏薬売り
もぐさ売り 百眼の歯磨
ねずみ取り売り


 かれらは人目を引くためにいろいな趣向をこらし、大声をはりあげて、街じゅうを売り歩いたという。
 行商人の扱う売薬は、ほとんどが清涼剤に属するもので、芳香健胃薬の類いといったものである。膏薬、かぜぐすり、歯磨などのくすりも多かった。一般の行商とは別に、香具師や「あるき医者」といわれる、くすりを売り歩くグループがあった。
 香具師は品物を販売するために街頭で、居合い抜きやコマ回しなどの見世物を演じて、人を集めることを常とした。売薬とは名ばかりで見世物を本業とするものも多かった。見世物行商を禁止する令もたびたび出ている。
 江戸時代末の1862年ころには、約800人の香具師がいたといわれている。かれらは自らの規律に従い、仲間内の結束は強く固かった。
 香具師は本来「野士」、つまり野武士のことであった。野武士たちが生活の糧を得るために、売薬をはじめたのがはじまりとされている。かれらの中には使命を受け、各地を旅する隠密だった者もいたという。

本草学と国産薬種
 江戸の中期まで、ほとんどの薬種は輸入に頼っていた。だが輸入薬種に贋物が多いことや品質の確保に難点などがあったこと、金銀の海外流出を防ぐことなどを目的に、幕府は薬草の栽培を奨励し、諸国に採薬使を派遣する和薬の調査を開始した。
 こうした背景にあったのが経験と実証を重視した新しい本草学である。その蓄積された知識が活用されて和薬の市場登場を可能にしたのである。
 中国で生まれた本草学は本来、薬効という観点から植物・動物・鉱物を含めたすべての自然物を上・中・下の三品に分類する知識体系だった。
 その本草学がわが国に広まることとなったのは、中国の本草学を集大成した明の李時珍による 『本草綱目』 が、1607年に長崎経由で伝わってからである。
 『本草綱目』はそれまでの本草学と違い、多くの図譜とともに、実際の動植物を手にとって分類し直そうという態度に貫かれている。貝原益軒はこの『本草綱目』を熟読し、自ら 『大和本草』を著して1708年に刊行する。
 その内容は草部の薬類として人参以下77品について解説、木部は樗以下31品におよんでいる。分類も『本草綱目』 のそれに準拠しながらも、批判をもって変更すべきものは変え、多年にわたる採集材料の検討観察を重ねた具体的知識に貫かれている。
 こうして蓄積された知識が活用され、和薬の市場登場を可能にすることとなったのである。1720年、町医・丹波正伯の一行が日光・箱根・白根・富士の諸山に採薬を行ったのを皮切りに、

1724年・伊豆半島
1726年・奥羽諸国
1730年・佐渡
1799年・蝦夷地

と、探薬に出かけている。
 こうした幕府の指導の結果、当時、輸入薬種の中でもとりわけ高価だった人参の栽培がようやく成功した。
 朝鮮人参は、昔時より万病に効ありとして珍重され、その有効性はもちろん、高価をことから他のくすりにない薬効が期待された。人参を得るために借金し、返済に困って娘を身売りする人や自殺する人まで出る始末であった。1607年、朝鮮から幕府に最初の献上品があったが、朝鮮人参もその中に含まれていた。その後、北海道、青森、秋田、仙台、水戸、津和野、名古屋、和歌山、高松、宇和島、熊本、福岡、秋月、鹿児島、延岡と実に日本全国各地の各藩で試作したが、いずれも土質・気象の関係もあって中絶し衰退していた。1728年、対馬侯が献上した人参の種子六十種のうち、日光・今市付近に植えたものが発芽した。これは「お種人参」と呼ばれ、唐物人参とは別に人参座が設立され取引が開始した。1736年には、「朝鮮人参の茎葉を病人に交付する由、服用したいものは願い出よ」との御触れが立った。


売薬に託した民間医療
 こうした幕府の 「くすり製造販売」は、以前からあった「施薬」 の発展したものである。売薬の普及によって民間医療を少しでも普及させようとした為政者の努力のあらわれといえる。
 甲州においては黄岑が発見され、国産に頼れるようになった。それまで多くを輸入に頼っていたが、その輸入黄岑も贋物も非常に多かった。幕府の医官、植村左平次は幕府の命で長崎において調査したところ、大半が贋物だったこともあったという。
 薬種の国内自給をめざし、全国各地に薬園がつくられるようになる。1720年には駒場に一万坪の薬園が開かれ、1722年には下総小金野(千葉習志野付近) の十五万坪の薬園を丹波正伯と薬種商・桐山太右衛門にそれぞれ与え、和薬栽培がはじまった。
 1725年には、蘭船がもってきた薬草の種子十五種を丹波・桐山両名に下賜L、試植させている。
 全国を採薬して歩いた丹波正伯により、「山野に得やすき薬方を選び、医薬に乏しき者を救済する」 のを目的に、1729年、『普及類方』が編纂された。医者が間に合わないときの用意にと 『広恵済急方』 『救急選方』も出版された。
 これらの出版物が普及するにつれて、一般の人びとの医学知識はだいぶ啓蒙され、同時にそれが売薬製造につながったといえよう。こうしてにわかに売薬がさかんとをっていった。


くすりやは何をしたのか
 輸入品の贋物を見破ったり、国産の黄岑ができるようになるなどの事実を聞き、薬種の生産に熱心だった将軍吉宗はたいへん喜んだという。幕府の施策により薬園づくりによる薬草栽培はだんだん軌道に乗っていった。
 しかしこうした活躍はすべて、幕府の医官や本草学者によるものであった。くすりやが召し出されて採薬に出ることはまずなかったといってよい。
 くすりやにとって、薬種はあくまでも商品にすぎなかった。薬効を研究するのは医師であり、薬物を分類するのは本草学者でなければならなかった。そして、かれらはともに武士の階級に属していたのである。士農工商の社会でほ、「商人」 の本分は求められても、「くすりや」 の職能は存在しなかった。
 現代からみれば当然くすりやに求められて然るべき、「くすりの効能に関する知識や製品への向上心」という、医療を担う意識は「商人」 の中には存在しない時代だったといえるのかもしれない。
 万能薬をうたい、処方の由来には神のお告げが記され、くすりやの店先は人目を引くさまざまな看板で飾られた。その一方では人びとの民間医療に確実に支えられ、売薬は江戸に薬文化を華開かせていくこととなった。

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