展示室 1

薬局の誕生


 日本では弥生時代には人参、附子、厚朴、甘辛、胡椒、大黄などの生薬が使用されていたと 『古事記』 には記載されている。当時の薬草の使われ方は、医学以前の経験やそれ以上に宗教的、神秘的色彩の濃いものといえるだろうが、神話の昔であっても、痛みがあればなんとかしたいのは当然である。くすりにたくした人間の願いは古今東西、変わるものではない。
 「病から逃れたい」「痛みをなんとかしたい」という人びとの思いに対し、薬を売ることを生業とした人たちは、どのように応えてきたのだろうか。


遣隋使がもたらした医学
 日本に医学の体裁をもったものが現れてくるのは七世紀のはじめ、大和時代のころで、中国大陸では隋の時代のことであったといわれている。日本の医学に大きな影響を与えたのは、聖徳太子による中国・隋への使節であった。遣隋使の小野妹子は、さまざまな中国文化を日本にもち帰った。その中には、すでに大陸では体系をなしていた医学も含まれていたが、わが国に伝わったのはごく限られた部分であり、医学というには程遠いものであった。
 大和時代の後半には大宝律令が公布され (701年)、それにもとづきわが国初の医療制度が施行された。その中には医科、薬園科にならんで呪禁(まじない)科まであったとされている。
 この制度は、大陸から伝来した医療制度に頼る部分が大きく、世の中が医療をいかに必要としていたかを示している。特に呪術的医療からなかなか脱皮できなかったわが国にとって中国伝来の医学が果たした役割は、大きかったといえよう。


市にならんだ、くすり
 店を構えてくすりを商うようになったのは、江戸時代に入ってからのことであり、それ以前はほとんど行商や市・座などでくすりを売っていた。
 平安時代(794年遷都) には、京の都には84の東西市が立ち (東市51、西市33)、くすりを商う「薬廛(やくてん)」 は東市にあったという。当時は大陸への航路も開け、取り扱われたくすりは国産の和薬だけではなく、中国や遠くインド産の薬物もかなりあったようだ。くすりの産地・種類ともに多岐にわたっている。
 遣唐使は寛平六年(894年)に廃止されたが、唐商はたびたび往復して貿易はむしろ盛んになっている。桔梗(ききょう)、枳実(きじつ)、葛根(かっこん)、杏仁(きょうにん)、厚朴(こうぼく)、竜胆(りゅうたん)、独活(どっかつ)、人参(にんじん)、車前子(しゃぜんし)、枸杞(くこ)、当帰(とうき)、半夏(はんげ)、茯苓(ぶくりょう)、麦門冬(ばくもんどう)、白朮(びゃくじゅつ)などをはじめとする主要生薬が、当時の市にはならんでいたという。
 さらに、これらの生薬に加え、宮中諸官庁の交付薬品として、「犀角丸(さいかくがん)、八味理中丸(はちみりちゅうがん)、茯苓散(ぶくりょうさん)、当帰丸(とうきがん)、四味理中丸(しみりちゅうがん)、五香丸(ごこうがん)」が売られており、このことは、すでに丹薬、膏薬、丸薬などの製剤があったことを物語っている。
 だが、市に出入りすることができたのは官吏、寺院の関係者や土地の有力者などといった上流階級に属していた人びとに限られており、庶民を巻き込んだ本格的な商業の発生というまでにはまだ至っていない。
 一般の庶民の場合、身近にある草根木皮から経験的に薬効のあるものを用いるほかは、呪術に頼る以外に病を治すすべはなかった。


座の形成−くすり商人の出現
 荘園制が発達した平安時代中ごろになると、各地の産物の流通はさらに活性化され、同じ品物を取り扱う人びとは集団をつくり、商品の生産・管理を行うようになっていった。それが「座」こ呼ばれる組織である。
 薬草を扱う座は 「草座」といった。製剤したくすりを扱う「唐物座」ができてくるのは、室町時代になってからである。
 商業が発展するにつれ、酒、味噌、白布、材木、竹などの業種とともに、草座や唐物座は 「人参座」 「竜脳座」などに分化・専門化され、免税をはじめとする数かずの特権をもつようになっていった。商業として著しい発展を遂げたことは、とりもなおさずくすりが特産的商品としてすぐれていたことを意味している。


僧侶のくすり
 8世紀にわが国に仏教が伝えられて以来、医療を行う僧侶が多く現れた。これは中国から医学を修めた名僧が日本に渡来して後進に医学を教えたり、仏教の修行に日本の僧侶が中国へ渡った際、同時に医学も伝えられたためである。
 奈良時代(754年) に来朝した鑑真は、膨大な数の生薬や「呵梨勒丸(かりろくがん)」等の薬物をわが国にもたらしている。鎌倉時代になると栄西が中国・宋より茶の種をもらい受けて『喫茶養生記』(1221年) を出版しているなど、医療を施した僧の例は数限りない。
 仏教では教義を究めるための補助として五つの学術を規定し、「五明」と称していた。そのひとつに「医方明」と呼ばれる医学の研修実践があった。病人を介護すること自体が、仏教における慈悲の行いの具体的修行に含まれていたわけある。当時の僧侶が医薬に詳しかったのはこのことからきている。
 だが、修行とは別に、僧侶は仏教を庶民に伝道するためのひとつの手段として、広く人びとに医療を施した。僧侶は当時、一般にはなかなか与えられなかった「通行の自由」をもっており、諸国への通行が許されていた。このことは、仏教の教義を人びとに浸透させると同時に、医療を広め、薬草の知識や薬の製造方法を諸国に伝えることに大いに役立った。
 僧侶が諸国にもたらした代表的なくすりとして、高野山の山岳修験僧の中から生まれ、信仰を通じて庶民の常備薬に普及した 「陀羅尼助(だらにすけ)」や、木曽御獄山の 「百草(ひゃくそう)」、越中立山の 「練熊(ねりぐま)」などがある。
 これらのくすりは「神授」として信仰の意味も含めて、江戸時代には人びとに広く親しまれていった。

『和剤局方』の功績
 僧侶の医療活動と合わせて、くすりの知識の普及に役立ったものとして、『和剤局方』 の名があげられる。これは中国・宋の時代に庶民救済を目的に中国各地の名医の処方を集めてつくられた処方集『太医局方』をもとに、1106年に徽宗の命により編纂されたものである。
 日本に『和剤局方』がもたらされたのは室町時代のことであり、江戸時代の初期には広く一般に普及している。
 『和剤局方』 には、丹・丸・散・膏をはじめとする数多くの方剤の処方、調整法ならびに適応症が記載してあり、専門知識があまりなくても活用でき、とても実用的だったことから人びとにもてはやされたという。
 一條兼良(1400〜1481) の著した『尺素往来』をはじめ、『頓医抄』や『萬安方』、『有隣福田方』など、日本でも類書が多く出版されている。
 当時、韓国や中国との貿易や交流が深くなるにつれ、交易品の中に薬物が主要な位置を占めるようになっていたことも、中国の医学を普及させるのに一役かったようである。
 中国伝来の書物の普及により、人びとの間に処方薬がだんだんと広まっていった。『和剤局方』 に記載の処方をはじめとする数かずの処方は、江戸時代になって 「売薬」として結実することとなった。「売薬」 は処方の社会化されたものとして、くすりに対する人びとのさまざまな願いを包みこんで、社会の中にますますその根を広く張っていった。


くすりにたくした人びとの願い
 ここで、仏教伝来以前からの日本人の病いに村する考え方、病いをどう受け止めていたのかを探ってみよう。
 わが国最古の歴史書である『古事記』によれば、国を治める政治に失態があると、天地の気候も乱れ、したがって人びとも病むものと考えられていた。
 これが江戸時代になると、当時の社会思想である儒教的自然観にもとづいて、疫病をはじめ、いつ起こるともわからない病気について、人びとはなかば天命としてそれを受け止めるようになっていたようだ。
 天命としての病気なのだから神仏に頼ろうとするのはごくあたりまえの発想である。疫病が出たといっては祭りをし、家内に病人が出たといっては、まず「おはらい」や「おふだ」にすがったのである。
 当時、多くの売薬が「神授」「家伝」「秘方」をうたっていたのはそれらのもつ宗教性や神秘性が、大きなよりどころだったのであり、人びとが薬に求めていたことにほかならない。
 同時に、当時のくすりやにとって、処方を「秘伝」とすることは、薬が薬として成立するためには必要なことであり、商品の独占を図るうえでもたいへん重要なことであった。こうしたくすりは何代にもわたって引き継がれていった。実際の効き目よりも、そうして「秘伝」 であることが、商品としての何よりの宣伝になったのである。


外用薬と戦国時代
 僧侶がもたらした医療の大衆化に加え、ひとつの時代背景がくすりの発展を見た例がある。
 戦国時代、日本各地は戦に傷ついた武士であふれていた。天文十二年(1274年) にオランダから伝わった鉄砲は、戦法だけでなく、負傷者の傷の度合も変えていった。
 そんな戦国の混迷期の中、刀傷などの軍陣外科を専門に扱う「金創医」と呼ばれる医師たちがいた。多数の負傷者を治療する必要にかられた金創医の活躍によって、血止め薬や膏薬などの外用薬が発展したことはいうまでもない。また、金創医とは別に、安土桃山時代初頭、キリスト教とともにもたらされた外傷を対象とする 「南蛮外科」が注目されたのもこのころである。これらは戦乱が要求した医療技術の分化といえよう。
 金創医の中には、婦人の産後の腹の傷も同じものとして、平時には助産の術を行う者が現れ、産前産後薬も合わせて発展をとげている。代表的なものとして、「山田の振出し」 「白朝散(はくちょうさん)」などがある。
 信仰から求められたくすりとは別にして、「やけどのくすり」 や 「下血のくすり」など、原因のはっきりしたものに対しては、それに確実に効くくすりを使うという習慣が確立していったのもこのころからである。
 戦国時代は、人びとにくすりがたいせつなものであることをあらためて認識させた。それとともに当時の為政者は、くすりが医療の中でとても重要な役割をもち、同時に非常に有用な経済手段であると実感することとなった。このことはのちの薬学、売薬等の発展を促す大きな動きとなっていく。
 その後、江戸時代に入ると交通手段の完備、貨幣経済への移行によって、生活必需品であるくすりは特産的商品としての色彩を強めていくこととなる。株仲間の形成、幕府の庇護など、くすりの商品性は高められ、重要な経済手段として位置づけられていく。
 くすりの薬効を客観的に確認する方法をもたなかった江戸時代のくすりやにとって、くすりの効き目はむしろ二の次であったといえよう。「秘伝」をうたうことにより、商品の独占が図られ、秘伝であることが最大の宣伝効果を生んで売れ行きを伸ばしていった。

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